坂道 episode1

学校までの長くて急な坂道を自転車降りずにどこまで登っていけるか?

いつも結果が決まっているので、こういった勝負事はすぐに諦めてしまうはずの友達のAが、今日は珍しく先導して坂道を登って行く。その背中には何やら気迫が満ちていて、いつものように負かしてしまうことに気が引けたが、学ランで額の汗を拭った僕は一気にAを追い越しにかかった。

僕「……え?」

追い越しざまにAが何か言ったが、全身の血をその脚力に集中していた僕にはうまく聞き取れなかった。

僕「なんだって?」

思わず自転車を停めて、僕はAを振り返った。

A「いやだからさ、典子ってかわいいよな?」

少しイラついたようにそう言ったあと、Aは恥ずかしそうに頬を赤らめた。Aの自転車の勢いはすっかり落ちてしまっていたが、ゆっくりと僕の自転車を追い越してからAは ニヤリと笑った。

A「勝った!!」

僕「ず、ずるいぞ!」

当時、僕ら二人の間では女の子の話をするなんてタブーだった。僕らの話題は、歴史や音楽がもっぱらの中心で、いつも一緒に登校している割りに、あまりお互いのことを知らなかった。

僕「それにしてもお前あんなのが好みなのかよ?!」

Aの思いもかけない告白にドギマギしながらも僕は、なるべく自然な態度を装って答えようとした。確かに典子はかわいかった。顔だけでなく頭も良い。ショートカットがよく似合い、笑うと左の頬にだけエクボができた……僕のクラスメイトだ。

A「うん。あ〜もう考えるだけでムラムラしてきた♡」

Aは更にタブーを犯してきた……好きな子がいるというだけではなく、思春期真っ只中の僕らの頭の中を掴んでは離さない下ネタをぶち込んできたのだ。しかしその「ムラムラ」というワードをきっかけに、二人の間にあったモヤモヤした霧のようなものが一気に晴れて行く気がした。

僕「じゃあさじぁあさ。今度、俺が変装して不良の格好で典子に絡むから、お前偶然通りかかったふりして典子のこと助けろよ。」

A「ふむふむ……なるほど!助けられた典子は、正義の味方である俺にメロメロになるってわけだね?」

僕「うーん……まぁメロメロまでは行かなくても仲良くなるきっかけくらいにはなるだろうよ?よーし。さっそく今日から練習しようぜ!」

A「……え?練習??」

僕「だって念には念を入れてさ。バレないようにうまくやらなきゃね。」

A「よし。放課後、うちに来てくれるかな?」

僕「もちろん。じゃあまた後で!」

学校の自転車置き場まで自転車を押しながら放課後の打ち合わせをし、僕らはそれぞれの教室へ向かった。

僕らのその秘密の特訓は、意外と熱心に続けられた。何部にも属さない僕らにとっては、晩ご飯までのあの気怠い時間を潰すことができさえすれば、何でも良かったのかもしれない。Aの両親は床屋を営んでいたため、夜 8時にならないと誰も家に帰ってこない。そこで僕らは普段、Aの家の居間を使ったり庭を使ったりした。月曜日は床屋が休みなので二人で河原へ行く。特訓後、疲れた体を河原に横たえ、対岸の山に沈む夕陽を見ながら、思わず僕は僕にも好きな子がいることをAに告白していた。Aはニヤリと笑って、自分の計画が成功した暁には、その子の前で不良の格好をして僕に投げ飛ばされてやるという約束をしてくれた。好きな子の名前は、そのときAから聞かれなかったので教えなかった。かといってもし名前を聞かれていても教えていたかどうかはわからない。

その翌日からは、代わり番こで特訓を行った。怒号と共に相手の胸倉をつかみかかりに来るその相手をヒラリとかわしてから、投げ飛ばす。それをいかに華麗に行なうかということに、僕らの若さゆえに有り余った全精力が注がれた。時々、手加減を忘れた僕に、痛い目に合わされたAがムッとしたときなんかには、すかさず「ムラムラする〜 ♡」とふざけては二人の間を和ませた。

しかし結局、内気な僕らがその計画を実行に移すことはなかった。二学期から僕が受験に向けて学習塾へ通い出したこともあったが、僕は同じ学習塾に通う子らとつるむことが多くなり、もともとクラスの違うAとは次第に疎遠になっていった。熱心な担任が始めた早朝の勉強会にも参加しだしたので、自転車での通学もAとは別々になってしまった。

しかし、疎遠になった一番の原因はやっぱり・・・・。

その後、学校の渡り廊下や自転車置き場などで時々、Aを見かけることがあったが、Aはいつもひとりぼっちだった。

真面目に勉強を続けた僕は、目標にしていた高校へと進学することができた。 (Aは進学せずに、就職したと人づてに聞いた。 )それからの僕は地元を離れて、京都の大学を卒業し、東大阪市にあるバイクのパーツを作るメーカーへと就職した。主に設計を担当している。父も母も早くに他界したので、もう地元に帰ることはほとんどなくなった。そうあれから 30年近くが経とうとしているのだ。僕は結婚もしたし、子供もいる。

そんなある日、地元にいる中学時代のクラスメイトの角田から電話があり、同窓会の出欠を問われた。そういえば案内のハガキが来ていたが、うっかり返信するのを忘れていたのだ。その日は予定もなかったので、「参加できるよ。」と答えてから、不意にA のことを思い出した僕は、Aが参加できるのかどうか聞いてみた。どうやら来ることができないらしい。僕は少しホッとし、しばらく角田とたわいもない話をしてから電話を切った。

ちょうど台所で洗い物を済ませた妻が、居間へやってきた。

妻「電話?だれからだったの?」

僕「あぁ角田から、同窓会の連絡さ。」

妻「わぁ懐かしいな。角田君元気そうだった?」

と言いながら妻は、僕の湯飲みにお茶を注いでくれた。

妻は年を重ねてからもショートカットがよく似合い、笑うと左の頬にだけエクボができた。


中学3年の2学期から、急に僕が受験勉強に没頭したのは、頭の良い典子と同じ高校に行きたかったからだ。中3の春から3年半想い続けて、高3の秋に僕は告白した。それから8年の交際を経て、僕と典子は結婚した。


僕はお茶を飲みながら典子に返事をする。

僕「うん。とても元気そうだったよ。」







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一方・・・Aは、あの後もひとり黙々とその特訓を続けていた。

続けるっていうか、その生涯をそれに捧げた。























このAこそが、後に合気道の開祖となる。


















あの植芝盛平なのであった。

うい あ


※この物語はフィクションであり、実在する人物、団体等とは一切関係ありません。特に合気道関係の皆様方におかれましては、悪ふざけがすぎましたことを深くお詫び申し上げます。