坂道 episode2
境内まで続く長い坂道を自転車降りずにどこまで登っていけるか?
いつも結果が決まっているので、すぐに諦めてしまう僕は、友達のBの背中を追いかけていることが多い。去年も一昨年もマラソン大会をぶっちぎりで優勝しているBには、まったく追いつけそうもないことに今日も嫌気がさした僕は、ニセアカシアの木に自転車を立て掛け、一息つくことにした。
ニセアカシアのそのごつごつとした樹皮に似つかわず、丸くてかわいらしい葉っぱの一枚を千切ってみてから僕は、ずっと尿意を我慢していたことを思い出した。
(ピシッ)
雑木林の中へ足を踏み込んだときに脇腹に痛みを感じた。どうやら小枝にひっかけたらしく、汗ばんだTシャツには薄く血が滲んでいる。舌打ちをひとつしてから、ゆっくりと時間をかけて尿意を開放する。顔を上げた僕は、木々の隙間に深緑の水面を見つけ、恐る恐る足を踏み出していた……。
参道から50mほど奥まで入っただけなのに、辺りは驚くほど静かで、なんだか入ってはいけない神聖な場所に足を踏み入れてしまったような気がしてきた。
(キーーーーーン)
一瞬、軽飛行機が飛んできたのかと思って耳を澄ましてみたら、その音は僕の耳の奥の方で鳴っていた。
高まる心拍数を意識しながら、その初めて見る沼の水面を覗いた僕は、すっかり体が固まってしまった。まさに蛇に睨まれた蛙のようである。……へ、蛇なのか?いや蛇にしてはデカすぎる頭が、沼の中から僕を見つめていた。でもブラウン管の中で悲鳴をあげていたテレビタレントの首に巻かれていたニシキヘビはこれくらいの頭だったよな……と、そこまで考えたところで僕は再び驚くことになる。
「雷魚だな。」
いつのまにかすぐそばまで来ていたBが、僕の肩越しに沼を覗いていた。
「な、なんだよ脅かすなよな。」
と僕は慌てる。なかなかやって来ない僕を心配して戻ってきたところ、参道の脇に転がっていた僕の自転車を見つけたらしい。
「雷が鳴るまでくわえた獲物を離さないことが、雷魚と呼ばれた由来らしいよ。別名でタイワンドジョウとも呼ばれる。英語圏ではスネークヘッドさ。こいつ魚のくせに肺呼吸するんだぜ。」
Bはスポーツもできるが勉強もできる。特に生き物の生態にとても詳しく、いつも僕に色々なことを教えてくれる。なるほどスネークヘッドか……Bの説明に感心しながら僕は思わず呟いていた。
「ギョッ」
「え?」
「いや……だからさ。魚だけにギョってさ……面白くないかな?」
「い、いや面白いと思うよ。」
その語感を確かめるかのようにBは何度か呟いた。ちなみに我ながら、そんなに面白くないと思う。
「ところでさ。お前好きな子いないのかよ?」
「え?お、おれ?そんなのいないよ。」
Bからの突然の質問に僕は無意識に嘘をついていた。僕は同じクラスの直子のことが大好きだった。長い黒髪がよく似合い、大きな口を隠そうともせずにケラケラとよく笑う。小学5年生の時から、かれこれ2年半想い続けている。
「なんだホントかよ?つまんねぇなぁ。」
「そんなこと言って、お前はいるのかよ。……好きな子。」
「あぁいるよ。」
あっさりと認めたBは、ポケットから折りたたみナイフを取り出し、側に落ちていたBの背の高さ程の木の枝を器用に削っていく。
「直子さ。お前確か同じクラスだったよな?すごくかわいいよな。」
Bの告白の内容に驚きながらも僕はできるだけ自然な風を装い答える。
「そうかなぁ?あんまりタイプじゃないけど……。」
僕の心拍数は再び上がり始めていた。いや上がり切っていた。一週間前のお昼休みに、直子とその友達がBのことを夢中で話しているのを聞いてしまったのだ。忘れようとしていたが、はっきりと思い出してしまった。直子もきっとBのことが好きだ。スポーツ万能で、勉強もできるBは更に整った容姿も併せもっていた。なぜに僕みたいに冴えない奴とつるんでいるのか、時々わからなくなることがある。いやそれより僕の恋は終わった。勝てるはずがない。そもそも同じ土俵にすら上がっていない。終わった……でも……まだ終わらせたくない。
「でも直子には付き合ってる男がいるんじゃないかな?よくは知らないけど……多分いる。」
僕はとっさにとんでもない嘘をついてしまっていた。
「ギョッ」
Bのその無理に明るく振る舞った反応は、驚くほど不自然で痛々しかった。そして俯いたBの目尻には涙がうっすらと浮かんでいる。
「う、うん……。でも気にすんなって。実は性格悪いらしいよ直子ってさ……こないだ捨てられてる子猫蹴ってたよ。」
その時の僕は多分ヤケクソになっていたんだと思う。Bを傷つけてしまったこと、そして自分の想いの所在のなさにやり切れなくなり、直子のあることないことを夢中でベラベラしゃべった。その後のことは、よく覚えていない。しかしナイフで削って、先の鋭くなった枝を勢い良く雷魚のいる沼に向かって、何度も何度も突き刺したBの強張った顔付きだけはなぜだか鮮明に覚えている。
それからほどなくして、Bは親の仕事の都合で横浜へ引っ越すことになった。別れ際に駅のホームで、Bはズボンの後ろポケットから折りたたみナイフを取り出して、僕にくれた。握る部分がくすんだ金色で、刃先にかけてまるで雲のようなモヤモヤした模様が走り、とてもきれいだった。
「持ち手は真鍮、刃は軟鉄と鋼を挟み込んで一本一本手で叩いて作ってるんだぜ。研げば研ぐほど使い易くなるよ。ただ錆びやすいから使い終わったらサラダ油でも塗っておくといいよ。」
そして電車が来るまでの間、Bは八景島というところにできたばかりの水族館に行きたいのだと、やたらはしゃいで話してくれた。
「またね。」
と言い、別れたBとはそれっきり会っていない。
Bにもらった折りたたみナイフは、一度だけ鉛筆を削ってみたのは覚えているが、果たしてそれからどこにやってしまったのかがまったく思い出せない。
あれから20年が経った。
僕は結婚し子供もいる。
そして僕は思いがけないところでBに再会することになる……。
ある日、居間で新聞を読んでいると、子供を寝かしつけた妻がいつものようにコーヒーを入れて、持って来てくれた。僕が新聞から目を離さないので、何気なくテレビをつけた妻が声をあげる。
「ちょっと何?あの帽子!?」
年をとっても長い黒髪がよく似合う妻は大きな口を隠そうともせずにケラケラ笑いながらそう言った。僕は、テレビに目を移し驚いた。
「おい直子……これBだぞ。覚えてるだろ?中2のときに直子が好きだったBだよ。」
「……え?」
そう。
Bこそが
テレビやラジオで大活躍する
その人であった。
※この物語はフィクションであり、実在する人物、団体等とは一切関係ありません。特にさかなクン関係の皆様方におかれましては、悪ふざけがすぎましたことを深くお詫び申し上げます。