理容室マミ

その日僕は、ある理容室の扉を開いていた。

頭を丸坊主にしている僕は、たいてい自宅でバリカンを使って簡単に散髪を済ましてしまうことが多い。前の方を自分で行い、後ろの方を妻にやってもらうのだ。

しかしその日に限って理容室へ行ったのは、車に乗ってから、前の日に飲みすぎたお酒の臭いに気づき、どこかで臭いを抑えたかったのと、先週バリカンの使い方を間違えた妻に、また散髪してもらうのをためらったためだった。

「理容室マミ」

その店には、以前から目をつけていた。見た目はいわゆる普通の純理容室で、店の前では例の赤と青と白の看板がグルグルと回っている。建物は比較的新しく、以前に40歳前後の店員さんが店の前に水を撒いているのを見かけたことがある。しかし僕がその店に惹きつけられた最大の理由は、店の外壁に掲げられた大きくて派手な看板のほうだ。

「大人カット1200円」

かれこれ5年近く、自宅で丸坊主にしているので、髪が長かったころのように散髪代に4000円以上も出す気はさらさらない。ましてやバリカンさえあれば丸坊主なんて簡単にできてしまうのだ。1200円ってことは、毎週通っても月に5000円かからない。この店を行きつけにすれば、もうバリカンの表側と裏側を間違えた妻によって、側頭部にバリカンの形をつけられる心配はないのだ。

平日の10時過ぎということもあり、理容室マミの駐車場には一台の車も停まっていなかった。18年前、理容室での散髪に大失敗した経験を持つ僕は、少しだけ緊張しながら車を停めて、店の入り口へ向かって歩いていった。振り返ると車が、駐車線に対して少し斜めに停まっていたが、これくらいはまあ許してくれるだろう。

入り口のドアガラスから中を覗くと、ソファーに座って新聞を読んでいる人がいる。おや?どうやら先客がいたようである。おじいちゃんとおばあちゃんが一人ずつ待っている。しばらく待たされることになるのかもしれないが、閑古鳥が泣いている店ではないようであり安心する。何か雑誌でも読んでいることにしよう。あまりおもしろそうな雑誌が置いてあることは期待できそうもないが、そこは仕方がない。なんせ理容室マミは、大人のカットが1200円なのだから。

カランカラーンとドアについたベルが鳴る。

「……いらっしゃい。」

おもむろにソファーからおばあちゃんが立ち上がり確かにそう言った。

客だと思っていたが、実は店員だったのだ。見るとおばあちゃんは髪の毛をド紫色に染めている。あっ……これがマミさんなのか。ということは、おじいちゃんはきっとマミさんのご主人だ。ソファーを見ると読みかけの新聞を脇にどけたままの姿勢のおじいちゃんがいる。僕の方をチラッと見たかと思うとすぐに目を逸らす。「いらっしゃい」も何も言わない。座骨をべったりとソファーにくっつけて、すっかりくつろいでいるのだ。なんだか居心地が悪くなってきた僕は、帰ろうかな……とも思ったが、まあ丸坊主にするくらいで失敗する散髪屋もいないだろうと腹を括ることにした。とにかく僕はすっきり丸坊主になれさえすればそれでいいのだ。あと少しだけ欲を言えば、ヒゲを剃る前にホカホカのタオルを顔にかけてもらい、ほっこりできればそれだけで「良い店」の評価をあげてもいいとすら思っているのだ。

結論から言うとマミさんの腕は悪くはなかった。

しかし、バリカンの電源が入ってすぐに、店の奥の階段を降りて店にやってきた40歳前後の店員さん(きっとマミさんの息子だろう。)が、髪を刈ってもらっている僕のすぐ後ろで、たっぷり時間をかけてひと通りの準備体操をし、カミソリを当ててもらっている僕のすぐ横の洗面台のシャワーの水を勢いよく使って寝癖を直してから、自分の髪をかっちりセットした。僕はそれを鏡越しに見たり、横目で見たりした。

「1000円でええわ。」

マミさんは僕にそう言った。店を出ていこうとする僕を最初と同じ姿勢のままのおじいちゃんがチラッと見た。(が、結局最後まで口を開かなかった。)そして店を出ると、マミさんの息子さんがホースを使い店先に勢いよく水を撒いていた。軽く会釈を交わしてから車に乗り込んでエンジンをかける。

そういえばヒゲを剃る前にホカホカのタオルを顔にかけてもらえなかったな。

さようならマミさん……。

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