沈下橋

数日前までしつこく降った雨で増水した川は、轟々と波しぶきを上げていた。

「あの沈下橋で、2人死んだんだよねー。」

その重たい内容とは裏腹に、のんびりと間のびした口調で話すレンタルカヌー屋の平さんが指を差した先に、その沈下橋があった。

沈下橋とは地方によっては潜水橋とも呼ばれ、その名の通り増水時には水面下に沈んでしまう。そのため橋に欄干はない。かつて日本最後の清流と呼ばれたその川には、本流支流合わせて60本近くの沈下橋があるが、その沈下橋には何やら他とは違う雰囲気が漂っている。黒くなったコンクリートの塊は圧倒的な力を蓄え、有無を言わさぬ存在感があるのだ。

その橋桁と橋桁の間には、流れがうねり、ぶつかり合い、波の高低差は1m以上にもなっていた。

確かに下手すりゃ死ぬな…….。

完全に臆してしまった僕は車の中で、一緒にカヌーで川下りをする仲間に、ひとつ提案してみることにした。

「せっかく近くに温泉もあることだし、そっち入ってかない?」

濡れた髪で、下流のキャンプ地で待つ、他の仲間のところへ帰れば、それなりに格好もつくだろうとも考えたのだ。もちろん即、却下された。

「でたよっ!チキンがでたよっ!」

一緒にいた沼田にそう言って笑われたが、よく見ると彼も目だけは笑ってなかった。僕が場を和ませるために何気なく言った冗談(半分本気だったけど)は、僕らを更に逃げ場のない状況へ追い込んだだけだった。僕と沼田と岡武と、そして中学になったばかりの僕の息子タロウの4人にとって、この冗談を機に、危険な箇所を避けてもう少し下流から下り始めるという選択肢はなくなってしまった。

川沿いの道を、そこからもうしばらく上流へ平さんの車で移動し、僕らは河原にカヌーと共に降ろされた。

「じゃあ着いたら連絡ちょうだいね?」

平さんはそう言ったあと、そそくさと三菱デリカで走り去ってしまったので、僕らはあまり深く考えるのはやめて、川を下り始めたのだった。この地で30年近くカヌーのレンタルショップを経営している平さんが、あれだけ軽く送り出してくれたのだから、多分なんとかなるのだろう。とタカをくくってもいた。

増水した川は、僕らをぐんぐんと運んでいく。時には川の水と一体となり、また時には流れに逆らい対峙する。そうやっていくつかの瀬を越え、確実に僕らの技術は向上していった。さてカヌーの技術とは推進力、旋回能力だけでなく、流れを読む勘のようなものも含まれる。カヌーで水面を進んで行くという行為には、浅瀬に乗り上げて進めなくなってしまうだけでなく、突然現れる岩に激突してしまうというようなオプショナリティがつきまとう。川上から川下に向かってカヌーからの低い目線で見ていると、時に滝のように思える箇所がやってくる。あらかじめ、どのラインを選ぶかによって、それこそlive or dieな状況へと運ばれてしまうのだ。



……だ、die?





「あの沈下橋で、2人死んだんだよねー。」




平さんののんびりと間のびした口調が、再び耳元に蘇る。

気がつくと、僕らはその問題の沈下橋の手前までやってきていた。来る時、川沿いの道から覗き込んだのとは、比べものにならないくらいの飛沫を上げ、あたりに轟音を響かせている。



とりあえず、カヌーを砂地に引き上げた僕らは、その沈下橋の側まで歩いて、どのラインを選ぶかで激論を交わした。




1番左の橋桁と橋桁の間は、水量も少なくてそこを切り抜けるイメージはすぐに沸いてきた。左から2番目、3番目の橋桁と橋桁の間には、波と波とがぶつかり合い、うねり、高まり、重なり、轟き、錐揉み、泡立ち、渦巻き、イラつき……とにかくなんやかんやごちゃごちゃしていて、とてもじゃないがまったく良いイメージが沸いてこない。かろうじて2番目の橋桁と橋桁との間の左の橋桁寄りの箇所にだけ、もしうまーく進入していくことができれば、クリアできるかもしれないラインが見えた。しかしここはどういっても1番左の危険の少ないラインだろう。

「やっぱ1番左だよね?」

と言った僕に、すかさず岡武が言う。

「いや、そんな行けて当たり前のところ行っても面白くないよ。全員で2番目行こうぜ!」

岡武は学生のころから、この川でカヌーをやっていて、僕らの中ではカヌーが一番うまい。ここまでの川下りも的確な判断が必要な先頭をひきうけてくれ、ツアーリーダーとしても皆に信頼されていた。どんなに際どい瀬がきても、「俺の後についてきたら、うまく行くから!」という姿勢で、僕らを安心させ、実際に岡武の選んだラインをついていくことで、僕らはかなり腕を上達させていったのだった。

安パイを選ぶのではなく、危険な2番目の橋桁と橋桁の間を行こうという岡武の提案に、そこにいる他の3人は全員ギョッとしたが、僕は岡武の次の言葉にもっと驚いた。






「じゃんけんで、行く順番決めようぜ!」






今回もてっきり、岡武が先頭を切って僕らに見本を見せてくれるものだと思っていたので、僕は心の底からビクッとしたのだ。

「ラインははっきりしてる。俺も怖いし、怖さは全員一緒だよね。じゃんけんしようぜ。」

僕は衝撃を受けていた。根っからの臆病者な僕には、「怖いけどやる。」という選択肢はなかった。怖いならやらなければいいし、僕はこれまでそういうことからひたすら避けるようにして生きてきた。しかし、岡武は違った……「怖いけどやる。」と言うのだ。

ちなみに過去にここで亡くなった2人の方々は、どちらもカヌーが橋桁に張り付いてしまったらしい。橋桁にぶち当たる何トンもの水圧からは、どんな達人であっても脱出不可能だという……これからその激流の沈下橋にカヌーで突っ込むなんて、酔狂なことをやろうというのだけど、不思議なことに、僕に恐怖感はなく、心の奥底から湧き上がるヒリヒリとした緊張感だけを感じ取ることができた。

なんだこの感覚は?さっきまであんなにビビっていたのに……そうか………多分、あの岡武も怖いのは僕と同じだと知ったから、何かしら僕の気持ちが吹っ切れたのかもしれない。




ふと隣りを見ると息子のタロウが、ブツブツつぶやいている。

「無理無理無理。絶対無理……。」

僕はそこでハッと我に返った。息子のタロウにだけは、無事でいてほしい。ここから無事に帰ってほしい。心の底からそう願った。






気がついたら、僕は一歩前に踏み出していた。







「僕が1番に下るよ。」







みんなが驚いた顔で、僕を見る。普段からチキンキャラで通っている僕が、まさかそんなことを言い出すとは思ってなかったのだろう。しかし父として、最善のライン取りを行い、怖がっているタロウを導いてあげなければならない。あるいは失敗するかもしれない。下手したら死が僕を待っているだろう。しかしタロウはそんな僕の姿を見て、何かを学びとるかもしれない。

いや……一瞬だけでも、ここで死んでもいいと思った自分を恥じた。タロウのためにも生きて帰るんだ。最高のパフォーマンスを見せて、後からついて来るタロウを安心させてあげることが僕の父としての努めではないのだろうか?






僕はパドルを握り、カヌーに乗り込んだ。











さあ来い波よ瀬よ。









fin.


※この物語は、ほぼノンフィクションであるが、フィクションの部分がひとつだけあります。実は………僕はこの沈下橋を4番目に下りました。実際には沼田(仮名)が、「俺が1番に下るわ。」と高らかに立候補したのです。はっきり言ってカッコ良かった。惚れ惚れするほどカッコ良かった。後になって考えてみると、僕も立候補すれば良かったと思いました。まあ結果論として、全員が難なく、この沈下橋をクリアできたからこそ言えることなのですが、僕は、男を上げる最高のチャンスを逃してしまったのです。あああもうっ!!せめてブログの中だけでも、ええかっこしたかったんですが…….ハァ虚し。