書くことについて

“書くこと” の師匠から文章を褒めていただいた。

1年前にブログを始めたのも師匠の影響だ。僕が勝手に師匠と仰いでいたのだが、その心の師匠が、「お前のブログはとてもおもしろい。」と言ってくれた。師匠はいつも僕のブログを楽しみにしてくれているらしく、こないだも出かけなければならないタイミングで、更新に気が付いたが、わざわざ足を止めて読んでくださったそうだ。そしてこのようなお褒めの言葉をメールしてきてくれた、「お前の文章はキレキレだ。」と……こんなうれしいことがあるだろうか?


さて、師匠に褒められてただただ嬉しいわけでもなく、「うふふ。やっぱりおもしろいのかー。」という自惚れた思いも実はある。なぜかというと、1本のブログを更新するということは、僕にとってたいそう丹精を込めた作業なのだ。文章を褒められるということは、自分の子供を褒められる感覚に近いのかもしれない。そこには産みの苦しみもなくはないが、基本的に書くということは楽しくてしょうがない。いかんせん途中で筆が止まってしまうこともあるので、同時進行で書くことも多い。寝かしつけたままのネタもある。さっきふと数えてみてびっくりした。evernoteに書きかけのネタが20もあった。半分以上は、日の目を見ることはないだろうが、一応温存中のネタと言える。ゆっくり寝かせることで、何かをきっかけにしてムクムクッと起き上がってくることもあるのだ。

前回の『モミアゲ』という話も書いている途中で、「う〜ん何かいまいち……とりあえず置いとくかー。」と2週間ほど寝かせた。そして散髪に行き、別のひらめきを得てから完成させたのだ。それはまるで、出来の悪い息子が、少しずつ成長していく様を目を細めながら見守るようでもある。

いよいよひとつの話を最後まで書けたとしても、そこからまた長い闘いが始まるのだ……何度も読み返し、「てにをは」や誤字脱字の校正だけでなく、無駄はないか、矛盾がないか、説明不足はないかを徹底的に推敲する。気が変わって、まったく違うオチにしてしまうこともしょっちゅうあるし、最終的に納得できなければ、丸ごとボツにしてしまうこともある。大切にしているのは、リズム感だ。

書き上げるときには瞬発力で書くが、校正には書くことに対して5〜10倍の労力をかけている。だから僕は、出来上がった文章がかわいくって仕方がないのだろう。

日ごろの僕のせっかちさを知っている友人からしたら、きっと信じられないことだろう。日ごろの僕は常に前のめりだ。むしろ書くことに対して、熟慮するというすべての能力を使い果たしてしまった結果、他の日常生活に支障を来たしているのかもしれないと思えてきた……ちょ、ちょっと待て、別に日常生活に支障をきたすほどのことはしてないと思うぞ……ま、まぁ僕のせっかちなエピソードについては、また別の機会に書くことにして、お金になることでもないのに、書くことにここまで労力をかけられるのは、やはり書くことが面白いからだと思う。そして何のために僕が書いているのかというと、「面白かった。」と言ってもらいたい。ただそれだけだ。

しかし自分の満足度と、人へ与える満足度は必ずしも一致しているとは限らない。これはただの自己満足なのか?と項垂れる日もある……眠れずに、何百匹もの羊を数えた夜もある……どしゃぶりのハイウェイ、朝まで走り続けたこともあるさ……だから師匠からの言葉は涙が出るほどうれしかったし、心血注いでいることに対する答えだと思っている。いや、ごめんまた言い過ぎた。心血注ぐってほど大袈裟なもんではない。「心血注ぐ」って、カッコイイからいっぺん使ってみたかっただけだし、毎日すこぶる調子良く睡眠もたっぷり取れている。(あと、「ゆっくりと飲むんだ。」ってセリフもいつか使ってみたい。そんな、スープで遭難者をもてなすようなシチュエーションが来る日を待ちわびている。)



ブログを始めてたかだか1年少々の奴が、何を書くことについて語ってんだ。とか思うかもしれないけど、まぁ聞いてください。実は「書くこと」についてはかれこれ20年近くやってきているのだ。










だからお願い今夜だけ……少しくらい語ってもいいよね?









僕は若い頃、“宅録”バンドをやっていた。(知らない人のために説明すると、“宅録”というのは“自宅録音”のことで、当時カセットテープを使って4チャンネルまで重ね録りできるMTRという機材があったのね。そのMTRを使って夜な夜な録音するわけなのよ。狭くて壁も薄い四畳半のアパートで。そして自分たちで作った曲でアルバムを7枚作り、タワーレコードで委託販売してもらったりしてたのだ。)


さて、そこでの書くことというのはもちろん“作詞作曲”のことなんだけど、これが僕にとっての書くことの始まりだったのではないかと、ふと思い当たったのだ。そしてそれが今の骨と血になっているのではないかと思っている。

曲に詞をのせるというのは、字数とメロディに制限を受ける。字数による制限は、わかりやすいと思うが、メロディによる制限とは……単語そのものが持つイントネーションがあるので、単語とメロディが噛み合うかどうかということだ。ちなみに噛み合わないと、なんだか心地悪い感じになる。

初期の頃、その宅録バンドは他のメンバーの書いてきた詞に、僕が曲をつけることがほとんどだった。詞が先にあり、それに曲をつけるのを僕は得意とした。しかし活動していくうちに、それまで詞を書いてくれていたメンバーが、自分でも作曲する楽しさを知ってしまい、詞が僕に回って来なくなったのだ。さあ大変。僕は必然的に自分で作詞をしなければならなくなったのだ。もちろん初期の頃から少しずつではあるが、作詞はしていた。すごく苦手だったが、それなりに名曲も生まれたりもした。(あわわ。自分で名曲って言っちゃったよ!?)





しかし僕にとって、詞を書くというのは、いつまでたっても苦行でしかなかった。









宅録バンドのメンバー3人がそれぞれ、自分自身で作詞作曲するようになってからしばらくしてバンドは解散した。























そして今、僕はブログを書いている。













こんな自由な場所はない。何の制約も受けない。何を書いてもいい。











どうりで書くことが楽しくて仕方がないわけだ。
















例えば今、なんの脈絡もなく
























うんこ。

















と書いてもいいのだ。
















だから、僕は声を大にして言う。

















うんこ。



















いや、こういうことはあまり大きい声では言わないほうが、いいのかもしれない。




























うんこ。



































さて、ご覧のように……書くことに時間をかけすぎると、何が面白いのか?本当に面白いのか?自分では、もはやわからなくなってくるというのが難点だ。










ブログをこうして更新するということは、まるで真っ裸で藪の中に飛び込むような気持ちになることがある。













今がちょうどそれだ。













おしまい。