靴屋

靴を買いに来たんだ。職場で履くための靴だから、別にどんなのだっていいんだ。いや、正確には違うな……どんなのだってよくはないよな。職場の中で履くだけの靴なので、普段履きにする靴を買いに行くときほど、気合を入れて買うつもりはない。なるべくデザインがシンプルで、履きやすい物なら、どんなのだっていいという意味だ。こだわりがあるようでない。ないようであるんだ。要するに、僕は金も時間もかける気はないんだ。おっと、革靴じゃないんだ。スニーカーでいいんだ。実は僕は、そこそこお堅い仕事についているのだが、職場内は足元に関しては、そこそこ緩いんだ。

そして今日、僕は靴を買いに来たんだ。会社帰りに、ある靴屋へ寄った。そうだな、仮にその靴屋を123ストアとしよう。実は僕は、その123ストアに行くのには、あまり気が乗らなかったんだ。なぜなら以前、息子の運動靴を買いに行った時、ある女性店員の対応があまり良くなかったからだ。その対応にイラッとした。もう二度とその女性店員から物は買いたくないなというくらいイラッとしたんだ。僕はあまり気が乗らなかったけど、123ストアは大手チェーン店で、このへんでは割りと品揃えが多いほうなんだ。また職場からの帰り道にあって行きやすいということで、仕方なく行ったんだ。その女性店員を避けて、他の店員から買えばいいやとも思ったんだ。とにかく今、僕が職場で履いている靴のつま先には穴が開いてしまっているようで、雨降りだった今日、ちょっとした水たまりを踏んだだけで靴下が濡れてしまっていたんだ。そういや、この靴は1年以上履いているな。うん。満を持して僕は靴を買うんだ。

夕方になり、ようやく雨は上がっていたが、台風の影響で、低く垂れ込めた雲はたっぷりと湿った空気を近畿地方にもたらしていた。天気予報によれば、夜半過ぎから再び雨が降り出すようだ。駐車場に車を停めた僕は、水たまりを踏まないように気をつけながら歩いたんだ。

123ストアに入った瞬間、しまったと僕は思ったんだ。木曜日の夕方だからなのだろうか、店内には店員がひとりしかいなかった。こともあろうに、例の女性店員がたったのひとりだ。今日、僕はご機嫌がいいので、あまりイラッとしたくはないんだ。僕はとりあえず、靴を選んでしまおうと思いながら、店内をぐるりと回った。そのうち、違う店員がやってくるかもしれないしな。その気に入らない女性店員には、声をかけられないように、気をつけながら店内を回るんだ。視線の端っこには、常にその女性店員を意識する。近づいて来そうになったら、すかさず別のコーナーへ移る。この123ストアの店員ってやつは、じきに声をかけてきやがるんだから、まったく油断も隙も見せられないんだ。サイズを出して欲しけりゃ、自分から声をかけるから、放っておいてほしいんだ。何より、その女性店員にだけは、関わりたくない。ある元凄腕営業マンがやっているメルマガでも、確か前にそんなこと書いていたぞ。何を買うかというよりも、誰から買うのか?……とかなんとか?ちょっとニュアンスが違ってるのかもしれないが、まぁだいたいそんな感じでいいだろう。

とにかく僕は、素早く何足かの靴に目星をつけた。あとはサイズ合わせだ。まだ、店内にはあの女性店員がひとりいるだけだ。僕は、早く家に帰って、やりたいことがあったので、急速に面倒臭くなってきた。そう、僕は今日中にオフロードバイクのチェーンを清掃して、油を差しておきたいんだ。つまり、靴を買うことなんてどうでも良くなってきたんだ。しかし、数日間続くであろう雨の予報なのに、このまま穴の開いた靴を履き続けるのはゴメンだし、また日を改めて靴を買いに行くのも、またまたこれからわざわざ違う店に行くのもゴメンだ。僕は面倒臭さに負けた。その女性店員に声を掛けたんだ。苦渋の決断だ。きっとその時の僕は、ずいぶんと苦々しい表情をしていたことだろうな。

出して欲しいサイズは26?だ。靴を手に取ったまま動きを止めた僕に、その女性店員がゆっくり近づいて来た。僕は目も見ずに、「これとこれの26?をそれぞれ出してもらえますか?」とだけ早口で伝えてから、近くの椅子に腰かけた。その椅子は、少しクッションが良すぎて、身体が深く沈み込んでしまうので、非常に靴が脱ぎにくかったが、まぁ今はそれくらいは我慢しよう。僕の想いは、頼むから今日は気分良く買い物させてくれ。ということだけだ。いや、気分の良いおもてなしなど、別に望んではいないんだ。普通でいい普通で。僕はそう思うと同時に、もしもまたこの女性店員が、失礼な接客をしてきた日には、ズバリと文句言ってやろうとも思っていたんだ。今日という今日は言わせてもらおう。と、心の中で決めたとたん、急速に僕の中にはメラメラとした使命感のようなものが湧いてきたんだ。きっとあの女性店員の接客態度に、イラついている客は、他にも多数いるはずだ。現にさっき僕が、話しかけたときにもニコリともせず、そのまま靴を取りに行く態度もいかにも気怠そうに見えたんだ。値段か?値段なのか?そのコーナーの中で、一番安い靴を僕が買おうとしているから、やる気が出ないのか?いよいよ、これは言わないといけない時がやってきたようだ。これは誰かが言わなきゃならないことなんだ。できるだけ感情的にならず、冷静になって指摘してやろう。さあ、かかってこ……ごくり。


僕は、その音をその女性店員に聞かれたんじゃないかと思って、心拍数が上がったんだ。でも、心拍数が上がった本当の原因は別にある。靴の入った箱を抱えて戻って来たその女性店員が屈みこんで、靴に紐を通し始めたんだ。女性店員は、ヒラヒラした白いブラウスを着ていた。僕がすっかり釘付けになってしまったのは、その胸元だ。色白でぽっちゃりしたその女性店員の胸元から、モチモチした柔らかそうな2つの物体が溢れそうになっていたんだ。靴紐を通し終わったその女性店員は、相変わらず気怠そうに僕の前に靴を差し出した。僕は、動揺を見せないようになるべくゆっくりと靴を履いた。次に僕はこう言ってやったんだ。「これの26.5?はありますか?」その女性店員は、積み上げられた箱の中からひとつ選んで持ってきたかと思うと、再び僕の側に屈みこんで、靴紐を通し始めたんだ。その動作は緩慢で、まるで丁寧さも感じられなかった。さっきの靴なんて、靴紐の表裏が所々でひっくり返っていたんだ。なんとなく不快ではないか、そういうことって。おまけにその女性店員は、僕が靴を履いた後も何も言わない。ただそこにいるだけだ。あるじゃないか、よく靴屋の店員の言うような、「いかがなさいますか?」だとか「お似合いになりますよ?」だとかのそういうお決まりの言葉だ。しかし、その女性店員が発したのは「ふふん。」という言葉だ。いやこれは言葉なんかではない。いくらなんでもそりゃないだろう。どうせ僕が、価格の安い方の靴を買うだろうと思ってバカにしているのか?それに対する「ふふん。」なのか?

そして相変わらず、屈みこんで靴紐を結んでいる女性店員のブラウスの胸元は無防備だった。僕はしばし目が離せなくなる。靴紐の先端が最後の靴穴を通り終わる寸前に、僕はさりげなく視線を外しておいた。目の前に差し出された靴に、足を通してから僕は店内を少し歩いてみたんだ。そして、すかさず僕は、こう言ってやったんだ。「すみませんけど、こっちの方の靴の26.5?を出してもらってもいいですか?」その女性店員は、またまたニコリともせずに一連の動作を繰り返したんだ。

屈み込む女性店員。目線を落とす僕。靴を差し出す女性店員。靴を履く僕。「何回も悪いけど、そっちの27?ってありますか?」と聞く僕。また気怠そうに、靴の入った箱を探して持ってくる女性店員。屈み込む女性店員。携帯電話を触りながら、さりげなさを装う僕。靴を差し出す女性店員と靴を履く僕。「これの黒色を履いてみたいんですが、出してもらってもいいですか?」と僕。「ふふん。」と言ってから、別の靴の入った箱を持ってくる女性店員。屈み込む女性店員の胸元を凝視する僕。靴を差し出す女性店員と、慌てて目をそらす僕。靴を履く僕…………そして、ついに僕は、こう言ってやったんだ。






















「この靴ください。」







ってね。









おしまい。