ホの字

行きつけの歯医者にいる歯科衛生士さんが、驚くほどの美人だった。

 

彼女はいつもマスクをしているので、これまで俺はそのスタイルと目だけを見て、「きっと美人なんだろうなぁ。」と想像してたんだけど、今日、ついにその全貌が明らかになった。そう、彼女がマスクをとって俺に挨拶してくれたのだ!!二度言うが、驚くほどの美人だったのだ。

 

そしていつもなら、パーテーションで区切られた空間に四つ程並んだ診察椅子のひとつに案内されるのだけど、今日俺はなぜだか個室へ案内された。ドキドキしていた。俺たちは二人っきりだ。彼女に椅子を倒され、タオルで目隠しをされた俺は、ゴクリと唾を飲み込んでから、言われるがままに口を開けた……すると、カチャリと音がして、彼女が席を立った。どうやら手に持っていた器具を置き、何かを取りに行ったようだ。

 

「唇、痛くないですか?」

 

戻ってきた彼女が言う。俺の乾燥して荒れた唇に気づいた彼女は、なんとその細い指で俺の無骨な唇に、優しくリップクリームを塗ってくれたのだ。もう一度だけ言う。彼女は驚くほどの美人の歯科衛生士さんなんだ。

 

ドキドキしていた。「痛かったら言ってくださいねー。」なんて言われながらグイグイ歯石を取られても、まったく苦にならなかった。(ほんとはすっごく痛かったんだけど。)歯石を取り終わった俺は、フッ素入りの歯磨き粉で入念に歯磨きをしてもらった。

 

「しばらく、そのままお待ちくださいね。」

 

そう言って診察室から出て行ってしまった彼女を待つ間も、俺の心は騒ぎ続けていた。一応、家を出る前に歯は磨いてきたが、俺の歯に粗相はなかっただろうか?痛くない素振りをしながらも、お腹の上で結んだ両手をギュウッと力一杯に握りしめていたことはバレてないだろうか?しかし、早くうがいがしたい。あ!俺、鼻毛とか出てなかったかな?それにしても遅いな……などと、ぐるぐるぐるぐる考えていたら、扉が開き、誰かが部屋に入ってきた。(椅子を倒され、タオルで目隠しをされたままなので、誰が入ってきたのかわからない。)さて、それからが長かった。誰かがすぐそこにいる気配はするのだが、何も話しかけてこないし、何も起こらない。ん?誰なの?彼女じゃないのか?と俺の不安感も最高潮に近づいてきたころ、ようやく彼女の声が聞こえたのでホッとする。

 

「お待たせしました。うがいをしてください。」

 

椅子を起こされ、顔にかけられたタオルを外された俺は、照明の眩しさに目を細めながら、うがいを済ませて、彼女の丁寧な歯磨き指導を上の空で聞いた。さっきのあの間はいったい何だったんだろうか?その理由は、家に帰ってから、清算時にもらった診療報酬明細書やその日の治療についての説明文に目を通しているときに明らかになった。

 

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そうだったのか。あの間は、これを書くための時間だったのか。元々、親知らずが疼いたことから、この歯医者に通い始めた俺だった。親知らずの治療は終わっていたが、その美人の歯科衛生士さんに定期的な検診を勧められ、今日は三ヶ月ぶりにやってきたのだ。そんな俺に、手書きの手紙を添えてくれるなんて、こんな面倒で手間のかかることをしてくれる歯科衛生士さんが他にいるだろうか?否、いないに違いない。そして、彼女が他の患者さんにもこのようなことをしているとは、どうしても俺には思えないのだ。

 

「個室」

 

「リップクリーム」

 

「手紙」

 

この三つのキーワードから、俺はある確信に至ってしまった。いくら鈍感な俺でもわかってしまったのだ。言っておくが、恋に恋してるんじゃない。これは大人の恋なのだ。他人には、口出ししてもらいたくない。

 

 

 

 

そして、俺は今とても困っている。なぜなら、俺の妻も同じ歯医者に通っているのだ。俺にホの字に違いないその歯科衛生士さんは、今後俺の妻に対し、わざと間違った治療を行うかもしれない。きっと妻は、痛い思いをすることになるだろう。場合によっては、歯科衛生士さんの彼女は妻に酷い言葉を投げつけるかもしれない。妻よすまない。俺がモテるばかりにすまない。

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