夜行バス

東京へ出張した帰り道、僕は久しぶりに夜行バスに乗った。

20代のころにも東京から神戸への夜行バスに乗ったことがあるが、狭くて寒くて一睡もできなかった思い出がある。しかし今回、僕が夜行バスを選んだのは「3列独立ゆったりシート・トイレ付・毛布付」という謳い文句に惹かれたからだ。いや……正直に言ってしまおう。僕がこの夜行バスを選んだ理由は、片道料金がなんとたったの5,200円だったからなのだ。

東京駅23時発までの待ち時間を在京の友人に焼き鳥屋で付き合ってもらい、ホロ酔いのほど良い気分のまま、バスターミナルへ向かう僕は、ドキドキしていた。いったいどんなバスがやってくるのだろう?まったく聞いたことのないバス会社名のため、あまり期待はしないでおこう。どうせ僕は酔っ払ってるので、どんなボロボロのバスであってもすぐに寝てしまうことができるだろう。

1月の寒空の下、ここでは見ることのできない星空に向かって僕はゆっくりとさよならの狼煙を上げるような気持ちで、白い息を吐き切った。

「23時発の大阪、神戸行きのバスが参りました。お乗りの方は、11番乗り場へどうぞ。」

ターミナルにいる案内員の声にハッとして目を向けると、綺麗に磨き上げられたグリーンのボディのバスが僕の目の前を過ぎて行った。予想外の展開だ。しかもバスは二階建てである。上がってきたテンションを抑えつつ、11番乗り場へ急ぐ僕。そして案内員から告げられた座席は、「二階の窓際席の一番後ろ」というものだった。思わずガッツポーズをしようとしてしまい、グッと右手の拳を抑えた。後ろの人に気兼ねなく背もたれを倒すことができるのは大きい。僕の快適な夜行バスの旅はこれで約束されたに違いない。

靴を脱いで席に着いて、上着を窓際のフックにかけてから、僕は気の利く友人が用意しておいてくれたビール、そして読みかけの文庫本を手元に配置した。もうひとつ忘れてはならないのがこのU字枕だ。

まくら


デザインも優れているが、なによりその質感はテンピュールにも劣らない。まあ実際のところ僕は、テンピュールの枕を使ったことがないのでよくわからないが、よくある空気を入れてから使うタイプのU字枕に比べたら、まるでテンピュール級ということだ。僕は、これらの快適グッズのひとつずつを眺めながら、心の中でこう呟いた。


have a good journey!




僕は若かりし頃、北海道や九州、沖縄そしてアジアの国をバックパックを担いで旅したころを思い出していた。結局どこへ行っても幸せの青い鳥は見つけられなかったけど、今こうして……あ、あれ?

ガチャガチャガチャ

僕は、背もたれをリクライニングにするために、肘掛けの先端についているレバーを何度も引いた。

夜行バス3


ガチャガチャガチャ

あれ?あれ?あれ?

その座席は、背もたれがまったく後ろに倒れないのだ。まさかこのバスは、最初からそんな設定なのか?と思い、隣を見るとくたびれたおっさんが、すでに背もたれをリクライニングにした状態で目を閉じている。もたもたしているうちに車内の照明は、その半分が落とされてしまっている。落ち着け、ここは落ち着くんだ。と、自分に言い聞かせながら、まず僕は靴を履き直した。

……ガ、ガチャッ

薄明かりの中、僕はしっかり床を踏みしめながら座席の背もたれに、力を込める。背もたれはジワーッと動き出した。かと思うとすぐに元の位置に戻ってしまう。今度は背もたれに肩を押し当てながら、慎重に足場を確認し更に力を加えるがまったくリクライニングしない。まったくリクライニングしないどころか、今度はレバーのついた肘掛けがフニャーと下に落ちてきた。

夜行バス5



な、な、なんの冗談だこれは!こんな機能いらんやろ!!それより背もたれだ!!リクライニングしたいんだ僕は!!こうなったらもうレバーがぶっ壊れたっていい!!















please reclining me!!!

と、心の中で叫びながら (しかし、決して周りの人に気どられることのないように) 満身の力を背もたれにかけた。

しかし、そこにはまるで屈強なプロレスラーがいて、背もたれを押し戻しているかのようだった。……ついに僕は敗北した。つまり諦めたのだ。あいにく車内は満席で、他の席に移る余地はない。




その後、直立したままの座席で、U字枕を使おうとしたら首が前に押し出されてものすごく不快だった。

夜行バス4


最後の味方だと信じていたU字枕にまでも僕は裏切られたのだ。

車内は電気をすっかり消されてしまい、誰もが就寝モードに入っている。あまりに暗いので、スマホを使うことすらはばかられ、僕はそっとヘッドホンを耳に差し込んだ。青葉市子の憂いを帯び透き通った歌声に、僕はたまらなくなって涙を噛み締めた。こうしてまた眠れない夜行バスの夜を過ごすことになったのである。


神戸に到着してから、他のお客さんが皆降りてしまうのを待ってから僕は、座席やレバーなどの写真を何枚か撮影した。こうなったらブログのネタにするのがせめてものお慰みではないか。

すると忘れ物の確認するために乗務員さんが二階に上がってきたので「ここの座席壊れてますね。」と僕は伝えた。不思議と怒りの感情はない。なぜなら5,200円の夜行バスを選んだのは僕だからだ。安い上に快適な夜行バスなんて、この世に存在するはずないじゃないか。一瞬たりとも期待してしまった僕が悪いのだ。

「えっ?そうですか?そんなはずないんだけどもな。」

と乗務員さんが答えるので、僕は実際にレバーを倒しながら言った。

「ほらね?」

もちろん座席はリクライニングしな……い、いや待て、なんだこの肘掛けの下にあるレバーは……こんなの今までまったく目に入らなかったぞ。ひょ、ひょっとしてこれなのか?つ、つまりこの矢印のついたレバーがリクライニングにするやつなのか……?

しーと

「……こ、これ?」

僕と目を合わせた乗務員さんは、こっくりと頷きながら笑顔でこう答えた。

「もっと早く聞いてくださればよろしかったのに。」

とてもとても優しい笑顔だった。



おしまい。


<エンディング>

青葉市子×コーネリアス『外は戦場だよ』